吉田義男さんの最後の肉声を聞いたのは昨年4月24日の昼過ぎのことだった。
その約2週間前、100周年を迎えた阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)について、1時間に及ぶインタビューで思い出を語ってくれた。掲載紙面を郵送したことへのお礼の電話だった。
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「うまくまとめてもらって、ありがとうございました。球場と同じ100歳までがんばりますわ」
そんな言葉で、吉田さんは数分の通話を終えた。だが、その願いはかなわなかった。
1950年の第32回全国高校野球選手権大会に、京都・山城高の遊撃手として出場。チームメートのことも、対戦した北海高(北海道)の選手のことも、細かく覚えていた。
「やっぱりうれしかったですよ。ただね、(戦後間もない)物がない時代で、お客さんはみんな白い服。(打球の)強弱も遠近も分かりにくくて。フライが上がったら僕だけじゃなく、みんな戸惑った」
立命大に進んだが、中退して53年にプロ野球・阪神に入団。俊足巧打で華麗な守備を誇り、「牛若丸」の呼び名でファンを魅了した。
阪神一筋で、69年シーズン限りで引退。着なれた縦じまのユニホームをまとい監督も務めた。
球史に残る試合を指揮したのは、85年4月17日。宿敵・巨人を相手に、バース、掛布(雅之)、岡田(彰布)の「バックスクリーン3連発」で甲子園をわかせた。
吉田さんは昨年4月のインタビュー時、この試合がどんな展開だったかをすらすらと解説した。
1―3の劣勢から3連発で6―3に。その後、九回に救援投手がクロマティと原辰徳に連続本塁打を打たれ、起用するはずではなかった中西(清起)を投入せざるをえなかった――。
「あれから選手たちは自信をつけていった。当時は巨人に勝つことが優勝につながる時代。巨人の選手は満員の甲子園で、本当に敵地というのを味わっていたと思いますよ」。リーグ優勝、球団史上初の日本一まで登り詰めた当時のことを、うれしそうに語ってくれた。
高校球児、プロ野球選手、指導者という三つの異なる立場で聖地の土を踏み続けた吉田さん。高齢になってからも、兵庫県内の自宅から電車を乗り継ぎ、球場近くにある昔なじみの喫茶店に通っていたという。
「家にいた時間より、甲子園にいた時間の方が長いんちゃいますか。甲子園は人生の一部ですわ」
聖地への愛をそう表現した吉田さんの笑顔が、今も鮮明に思い浮かぶ。